「教育には社会を変える力がある」教育と探求社 代表取締役社長 宮地の創業物語①
全国490校、小中高生約10万4千人(2024年10月時点)が現在学校の授業で受講している探究学習プログラム「クエストエデュケーション」。
はじまりは19年前、当時日本経済新聞社に務めていた一人の社員、宮地勘司が、教育で社会を変える夢をみたところからでした。
もともと教師を目指していたわけでもなく、学校に関わる仕事をしていたわけでもない宮地が、なぜ教育事業で、40代にして起業を決意したのか。そして探究学習はもちろん、キャリア教育という言葉もよく知られていない時代から、どうやって現在のクエストエデュケーションをつくりあげて来たのか、そのストーリーを追います。
教育と探求社
代表取締役社長 宮地勘司 Miyaji Kanji
1963年長崎県生まれ。88年立教大学社会学部卒業。 同年、日本経済新聞社入社。02年、自らの起案により日本経済新聞社内に教育開発室を創設する。新聞資源を活用した教材開発に取り組む。04年11月、教育と探求社を設立。代表取締役に就任。12年より法政大学キャリアデザイン学部講師。
きっかけは寝てるときに夢でみた「学校」だった
私の教育事業のはじまりは、2001年の春に見た、ある夢がきっかけでした。
当時日本経済新聞社に所属していた私は、広告局という部署に所属していて新聞紙面の広告企画を担当していました。
当時つぶれかけた日産を立て直したカルロス・ゴーンさんと、今をときめく経営者のユニクロの柳井さん。
この2人が私の夢に出てきて、話をしていたのです。
2001年当時というのは、カルロス・ゴーンさんは経営不振にあえぐ日産をV字回復で立て直したまさに救世主、ユニクロはまだ世に出たばかりで、一冬にフリースを3000万枚売って急成長、上場した直後というタイミングでした。
「ビジネスって最高に面白い、人生はダイナミックだ」
熱く語り合う二人を見つめるのは、すごい数の10代の子どもたちでした。きらきらと目を輝かせて、真剣に聞き入っていました。
会場の熱気、生き生きとした子どもたちの様子。
そのとき私は、なにか内側から湧き上がるようなものを感じました。
そしてふっと目が覚めると、思わずそのときの様子をメモにとりました。
「日経新聞が主催する高校生のためのビジネススクール」。
これが、今後15年間にわたる私の教育事業のはじまりでした。
寝てるときに見た夢が実現した「日経エデュケーションチャレンジ」
夢をみた翌日から、私はさっそく行動をはじめました。
「中高生と企業経営者が交流するような教育イベントをやりたいんだけど、どうかな」
日経新聞の上司や同僚たちに、夢でみたあの景色を実現できないか、教育イベント開催の話をもちかけていったのです。しかしながら、反応はあまりよくありません。
「なんで日経が教育やるのかよくわからない、高校生相手の教育なら事業は朝日新聞紙に任せていればいいんじゃない。日経はビジネスの新聞だから」
「そもそも高校生は新聞読まないし、教育は儲からない。なんでそんなことやりたいのかわからない」
当時は、バブルは崩壊していましたが、ビットバレーなど、ITビジネスの勃興期。高校生に向けた教育事業などほとんど関心を示してくれる人はいませんでした。しかしそんな中で唯一、賛同してくれる人がいました。
「面白いじゃないか、俺と一緒にやろう」
その人は日経の大先輩で、数ヶ月前に子会社に転籍になったばかりの人でした。
「いいか、全く新しい企画ってのは、なかなか理解できないから誰もついてきてはくれない。一人か二人くらいの人間が必死になって形にしてから、はじめて協力者が現れる。それまでは未来が見えているやつが死ぬ気でがんばるしかない」
その言葉に突き動かされ、必死になって走り出しました。関心を持ってくれた人たちが仲間となり、二人から三人、三人から四人と、少人数ながらも関わる人は徐々に増えていき、企画はどんどん形になっていきました。
企画を実現しようとするときに最も大変だったのは、参加する高校生を集めることでした。
企画に賛同してくれて、高校生に授業を行ってくれる企業はなんとか8社集まったものの、肝心の高校生がなかなか集まらず、500人定員の会場に、残り1ヶ月を切って50名足らずという状況でした。
私は、都内の高校を1校1校周り、先生を説得して回りました。
「高校生の未来に役立つイベントをこの度、日経が初めて開催します。参加は無料です。関心を持ってくれそうな高校生に一人でも二人でもいいので案内してくれませんか」
そうして徐々に50名足らずの状態から、70名、100名と申込みが集まり、開催日の前週には申込み人数は300名を超えました。しかし、まだ不安はありました。「高校生はスケジュール帳なんか持っていないから申込みをしても、当日は忘れてしまっていて本当に来るかどうかわからないよ」外部のスタッフに言われた一言が、ずっと胸に残っていたのです。
そうして夢にみたあの日から約半年後、ついに企画を実現する日がきました。
当日は準備の間、会場前のゆりかもめの駅をひとりでずっと見つめていました。高校生が本当に集まってくれるのか、不安でしょうがなかったのです。開会30分前になって、何人かのブレザー姿の高校生が駅のホームにが降り立った姿をみて、私は胸がいっぱいになってしまいました。
2001年秋、「日経エデュケーションフォーラム」の開催です。
(※翌年から夏休みに開催、2005年から「日経エデュケーションチャレンジ」に改名)
「日経エデュケーションフォーラム」は、全国から集った何百人もの高校生に企業経営者や技術者が直接授業をします。仕事がどんなに大変で、だからこそやりがいがあって、それがどんなに素晴らしいことか。そんな大人たちの本気の授業が展開されます。参加した高校生はそれを受け、後日自分の考えをまとめたレポートを提出します。
講義をしてくれたのは、バンドマンの傍らアルバイトで吉野家に入社し、そこから叩き上げで社長にまでなった安部社長。西武百貨店の子会社で割賦販売の緑屋に異動になり、そこから日本一のカード会社をつくると誓い、クレディセゾンを築き上げた林野(りんの)社長、コナミのゲーム開発者、NECのスーパーコンピューターの開発者。そうそうたるメンバーが集い、高校生のために渾身の授業を行ってくれました。
そして、この日、全体のまとめ役として、「日経エデュケーションチャレンジ」の1日校長を努めてくれたのが、一橋大学の米倉誠一郎先生です。会の冒頭、集まった高校生に対して、イノベーションがいかに素晴らしいもので、みんなはその力を持っている、という講義をしてくれました。
参加した高校生たちは、興奮し、食らいつくように授業を受け、企業人を質問攻めにしていました。彼らの内なる何かが動き出したことが手にとるようにわかりました。
当時は、コギャル、ガングロ、ルーズソックス、オヤジ狩り、という時代。彼らの中にはやり場のないエネルギーが満ちていて自分たちでも持て余しているように見えました。しかしそのもやもやしたエネルギーを、社会のダイナミズムとつなげると、自然と創造的、発展的な方向に向かい始めるということを漠然と感じました。
日本経済新聞社の企画ですから講義をやって終わりではありません。当日の講義の様子と、それを受けた高校生のレポートを、新聞の1ページを使って掲載しました。
当時、大幅な価格の見直し押して200円台で牛丼を提供し始めた吉野家は、何を考えてこのようなことを行ったのか。マーケットを見る視点、商品の質を落とさずに値下げをする努力。そのような企業の裏側の話を高校生に向けてわかりやすく伝える授業は、実は大人にとってもとてもわかり易いものでした。一般の消費者にとってはもちろん、株主にとっても、取引先にとっても、とても有効な情報発信となりました。そして、その企業の授業を受けた高校生の生々しい感想はさらに読者の注目を集めました。
日本経済新聞の広告は1ページ1千万円以上しましたから、初年度8社、多い年には10社を集めたこの企画は、ビジネスとしても大成功した企画となりました。
高校生参加者が国の当たり前を変えた
さて、そうしてこの「日経エデュケーションチャレンジ」というイベントを続ける中で、私の教育に対する思いが一層強まる出来事がありました。
税所篤快(さいしょあつよし)くん。彼は当時高校生として、日経エデュケーションチャレンジに参加しました。現在は本を出したり、講演をしたり、たまにはテレビに出たりと、教育界で有名な人物となっています。
彼の本のひとつ、「前へ!前へ!前へ!」の裏表紙には、こんな写真があります。
通っていた都立の学校で、数学のテストが100点満点中3点、16点。左の封筒は、「このままじゃ進学できません」と、学校から保護者が呼び出されたときの手紙。当時の偏差値は28しかなかったと自分で言っていました。やる気も目標もなく、自称おちこぼれでした。
そんな彼が高校生の夏休み、日経エデュケーションチャレンジに来たことをきっかけに、自分にもなにかできるかもしれないと思うようになり、猛勉強をするようになったそうです。東進ハイスクールで中学の数学からやり直しました。そうして見事、早稲田大学に合格したのです。
「自分もあのキラキラした大人たちの仲間に入りたいと思った。それだけを考えて勉強した」
彼はそう言っていました。
税所くんの面白いところは、こうしてどんどん行動して、未来を拓いていくところです。
大学に入った彼は、色々と本を読む中でムハマド・ユヌスさんについて知ることになります。ムハマド・ユヌスさんは、1983年にバングラディッシュで、貧困層向けに少額融資を行う「グラミン銀行」を設立した経済学者。貧困層に寄付やお金をただ与えるのではなく、小額の融資を行うことで、彼らが小さいビジネネスを自ら立ち上げて、経済的に自立していくことを支援するマイクロクレジットの仕組みを作り、2006年にノーベル平和賞を受賞しています。
税所くんはムハマド・ユヌスさんについて書かれた本を読むと、なんと!その2ヶ月後にはバングラディッシュに渡り、ユヌスさんに会いに行きました。そして受けつけてもいないのに、日本人最初のインターンと言って彼のそばに居座り、何かできることはないかと探したのです。そしてバングラディッシュの格差の現状を知ることになりました。
バングラディッシュは、実は今すごく経済成長を遂げていて、人口も日本よりも多い1億6千万人(2018年1月時点)。過当競争で受験戦争が極めて激しい状態です。大学に行くには、首都に住んでいて、親が裕福で予備校に通うお金を出せないといけない。つまり「貧乏人と田舎者は大学には行けない」というのが常識でした。
彼は落ちこぼれだった自分が必死で中学の勉強からやり直し、早稲田大学に合格したことを思い出し、バングラディッシュの子どもたちにももっと機会を与えることができるのではないかと考えて、行動を起こしました。彼のしたことはこうです。
まず日本に来て大人たちから寄付を集める。そしてそのお金を持って、バングラディッシュのトップ予備校の先生に授業を売ってもらいました。東大より入るのが難しいといわれているダッカ大学に行き、主席の学生を口説き落とし仲間に引き入れます。そしてトップ予備校の名物講師を見つけて協力を仰ぎ、「あなたの授業を全部カメラの前でしゃべってください」と言って動画の授業を自ら作成したのです。そしてその映像授業をダッカ郊外の、ハムチャー村の32名の若者に無料で届けました。
その結果、なんとダッカ大学合格者1名を含む、18名が大学に進学することができたのです。
お金がなかったり、田舎に住んでいる人は大学にいけない。そう考えられていたバングラディッシュでは、こんなことはこれまでは起こりえないことでした。郊外の学生たちが進学したことは、ダッカの新聞でも「ハムチャー村の奇跡」として新聞の一面を飾ったそうです。
その後、このように貧しい子どもたちや機会を得にくい子どもたちに学びを届ける活動はフィリピンやヨルダン、ミャンマーなど14の国と地域に広がっていき、今や200名以上の大学生が関わる「E-education」という NPO になっています。
教育が変われば世の中が変わることを確信
この活動が始まったのは、税所くんが頑張ったからです。彼を支え、応援してくれた人たちもたくさんいました。しかし、落ちこぼれだった彼が動き出したのはあの夏休みの1日、「日経エデュケーションチャレンジ」で企業経営者の話を聞いて「俺にもなんかできるかもしれない」と、そう思ったから。そしてそこから小さな一歩を踏み出したから。
たった一日の体験が、人生が変わるきっかけになった。
「たった一日の小さな気づきが一人の人生をまるごと変えて、そのことで社会を変えていくことができる!教育とはなんてすごいんだろう!」と私は深く感動したのです。
そして、「教育が変われば、世の中は変わる!」強く思いました。
私は社会が変わる現場に立ち会いたい、そう思って新聞社に入社しました。しかし本当に世の中を変えていくのはもしかしたら教育かもしれない。教育は、一晩で世の中を変えることはできないが、仮に10年あれば、本質的に世の中を変えていくことができるかもしれない。教育が変わったら確実に何かを変えることができる。そう感じたのです。
→創業物語② へ続く
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