日経から独立起業、教育の会社を設立。 教育と探求社 代表取締役社長 宮地の創業物語③

日経から独立起業、教育の会社を設立。 教育と探求社 代表取締役社長 宮地の創業物語③
教育と探求社 創業物語

全国32都道府県195校の中高生3万4,000人(2020年4月時点)が学校の授業で受講している探究学習プログラム「クエストエデュケーション」。

はじまりは15年前、当時日本経済新聞社に務めていた一人の社員、宮地勘司が、教育で社会を変える夢をみたところからでした。

創業物語第3回目の今回は、日本経済新聞社の中で教育事業をたちあげようとした宮地が、どのように社内で協力を得るようになっていったのか。そして最後はなぜ自らが起業することを決めたのか、にせまります。

起業物語①
起業物語②
→起業物語③:いまここ

教育と探求社
代表取締役社長 宮地勘司 Miyaji Kanji
1963年長崎県生まれ。88年立教大学社会学部卒業。 同年、日本経済新聞社入社。02年、自らの起案により日本経済新聞社内に教育開発室を創設する。新聞資源を活用した教材開発に取り組む。04年11月、教育と探求社を設立。代表取締役に就任。12年より法政大学キャリアデザイン学部講師。

社内で話が進まない

「日本経済新聞の輝く未来はここから始まります!ぜひ進めましょう!」

日本経済新聞社として取り組む教育事業の計画を作成し、さらには実際の授業で使う教材のプロトタイプ(試作品)まで作成。渋谷教育学園での実験授業も成功し、満を持して、私は再び上司に話にいきました。

「新聞の読者はこれからゆっくりと減っていきます。日本経済新聞は、もうひとつ事業の大きな柱を作るべきです。教育事業は日本経済新聞が取り組むのにふさわしい事業です。膨大な情報のストック、インテリジェンス、グローバルネットワーク、イデオロギーの偏りがないこと、そして何よりも現実社会に向き合う実践力、これからの中高生の学びは単なる学力だけではなく、このような実学が求められます。素晴らしい日本の未来を日本経済新聞からはじめましょう!」

しかし上司の返事は

「そうだな、そのうちやろう」

初めて事業計画を見せに行ったときと同じ、変わらぬ上司の反応に驚きました。教材ができても、生き生きと学ぶ生徒の姿をみても、一向に物事が動く気配はありませんでした。

「ここまでして、どうして伝わらないのだろうか」
私は考えました。教育で新規事業をやるためには、100年を超える伝統的な文化を持った会社ではむりかもしれない。子会社を別につくってやるしかない。どうしたらできるだろうか。

黒船を出す

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そこで相談したのが、あの先輩でした。そう、事業計画を出す前に「ゾウは食えるか?」という話をしてくれた先輩です。当時起業2年目だった彼は、そのときはすでに上場準備に入っていました。(その2年後に実際に東証マザーズ上場を果たしました)

「そうか、だったら黒船を出せばいいよ」

「え?どういうことですか・・・?」

「だから、黒船を出すんだよ。

創業130年を超える日本経済新聞なんていわば徳川幕府みたいなもの。形が出来上がっているんだよ。君みたいな下級武士が何を騒ごうが老中たちにとっては全然関係ない。ビジネスインパクトからいっても、(当時)2,000億円以上の売上がある会社で、1億円稼げるかどうかの君の新規事業の話なんて、ぶっちゃけどうだっていいわけだ。教育事業に情熱も関心もない。
そんな組織をどうしたら動かせると思う?

幕府が動いたのはペリーが来たからなんだ。浦賀に黒船が来たから無視できなくなって開国した。つまり外圧に弱いんだよ。そういう老中たちが無視できない状況を、自分で作るんだよ」

そうか、なるほど。でも、意味はわかったけれど、どうやってやれば…

私は考えました。

そうだ、外の会社に協力を仰ごう。

資本を集める

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「日本経済新聞と一緒に会社を作り、日本の教育を変えましょう!」

教育事業を一緒にやろうという提案をして、他の企業が参加してきてくれたら、日本経済新聞も会社として無視できないことになり、事業を進めることができるかもしれない。

そんなことを考えはじめたある日、ふと新聞をみると、日経産業新聞に「大手総合電気メーカーから100名の起業家を輩出。スピンアップ・ファンド100億円」という記事が目に留まりました。

手にとってじっくり読んでみると、「大手総合電気メーカー社の社長が社内大改革の一つのプランとして、100億円のベンチャーファンドを作り、社員から100名の起業家を出す」という記事。当社グループで、オーナーシップや起業家マインドのある社員を育成したいということで行われた施策でした。

そして、そのなかから出てきた会社のひとつにeラーニングの会社がありました。もしかしたら教育事業を営むこの会社が、日本経済新聞との教育事業に関心を持ってくれるかもしれません。

その日のうちに電話してその会社の社長にアポイントをとり、数日後会いに行きました。社長は大いに関心を示し本社のスピンアップ・ファンドに掛け合ってみるということになりました。ひと月もたたずにもらった回答は、日本経済新聞の教育事業に大手総合電機メーカーが1億5,000万円出資するという内定が出たというものでした。

勢いに乗った私は、さらに出資してくれる仲間を探し求めます。次に話を持ち掛けたのは、大手通信会社です。2000年ごろから日本政府がEジャパン構想を立ち上げ、世の中をすべてIT回線でつなぐ、学校もブロードバンドでつなぐという計画が発表されていました。Eジャパンの中核を担う大手通信会社グループが資本金600億円に登る巨大な戦略子会社を立ち上げていました。この会社は「ネットの中に都市を作る」という構想で、リアルのあらゆるサービスをネット上で提供することを計画していました。2020年の今、やっと実現しかけきているような世界です。
私はまだできたばかりのその会社に、「ネット空間に学校を作りましょう」という提案を持ちかけました。当時の社長がその話を気に入ってくれて、1億円を出資する話の検討を進めてくれました。最終的な決定権のある大手通信会社の持株会社の幹部会で直接プレゼンテーションをさせていただく機会をもらい、後は結果を待つだけ、という状態になりました。

さぁ、大変です。

私は一介のサラリーマンとして社内の誰にも相談せずに話を進め、大手総合電機メーカーの出資が内定し、大手通信会社の持株会社で検討に入っているという状態になりました。
怖くなかったといえば嘘になります。しかし、このことは、世の中のため、未来を担う子どもたちのため、そして何より日経の未来を担う事業を育てるため。私心はありません。幾夜も考え続け、すでに覚悟はできていました。

しかし、ここから先は日本経済新聞の社内にもきちんと話を通しておかなければなりません。

プロファイル

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さて、日本経済新聞の社内で話を通すと言っても、誰にどのように切り出せばよいものか。失敗は許されません。ここまで準備してきた事業をなんとしても形にしたいという思いばかりが募っていました。

当時の日本経済新聞の役員を一人ひとりイメージしながら誰だったら私がつくる教育事業をサポートしてくれるのかシミュレーションをしました。それぞれの役員は個性もあれば考え方も違います。興味関心の領域も違う。一体誰が賛同してくれるだろうか。

社内の色々な人から役員たちの人となりについて一通り話を聞いて、ぜひこの人に話をしたいと思ったのが、当時の副社長、新井さんでした。新井副社長は、東京大学経済学部出身。社内でも発言力強く、人望も厚い人でした。その上、茶目っ気があって、ベンチャーマインドがある。

そんなわけで、新井さんならきっと前向きに、教育事業の話を聞いてくれると思ったのです。

副社長を飲みに誘う

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当時は今あるような社内のカレンダー共有機能もないので、スケジュールは直接聞かなければわかりません。私は新井副社長にお話する機会をうかがうため、新井さんの秘書のところによく顔を出し仲良くなりました。

秘書の方はとてもいい人で、新井副社長の日頃の様子や、比較的余裕がありそうな時間帯など教えてもらいました。

そして、いよいよ新井副社長に話をしようと思ったとき。ゾウと黒船の話をしてくれたあの先輩が、またおかしなことを言うのです。

「本気なら拉致しろ」

「何ですか、それ?」

「だって役員室で話していると、すぐに秘書からメモが入ってきて、なんとか部長が待っていますとか、そろそろお出かけの時間ですとか、いうだろう?まともな話は10分くらいしかできないだろう?」

「確かに」

「だったら周りと遮断されているところ、自分のフィールドに連れて行くんだよ」

マジか、と思いました。いくら考えても、いい方法は思いつきません。時間ばかりが過ぎていきます。そこでままよとばかりに、新井副社長のゆとりがありそうな時に、部屋に飛び込んでいきました。

「あの~、新井副社長。お願いがあります」

「なんだ、言ってみなさい」

「ぜひ僕と飲んでほしいんですよ」

「え?・・・・というか、そもそも君はダレ?」

「広告局の宮地と言います」

「何?言いたいことがあるならここで言いなさい」

「いや~なんというか・・ここでは言えません!」

自分でも、今思っても、だいぶ不気味だったと思います。

「ほんとに飲まなきゃダメなのか」

「はい。ダメです」

新井副社長は観念して、なんと私と約束をしてくれました。2週間後にある会社との会食がある。それが終わった後。帝国ホテルのレインボーラウンジに10時ごろ行くから、待ってなさいと。

よしここまで来たと心でガッツポーズしながら、すぐにその日のシミュレーションをはじめました。

新井副社長は会食のあとで、だいぶお酒を飲んで来られるだろう。私が伝えたいことをすべて伝えることができるだろうか?

私が伝えたかったことは、こうです。日本経済新聞がなぜ教育事業をやらなきゃいけないのか。
「私の履歴書」を使って実際に行った渋谷教育学園での実験授業の成果。教育事業を進めるために必要な体制と事業のメリット。そして、すでにこのプロジェクトに出資を決めている会社があるということ。

情報量も多くお酒も入っていては全体の意図とファクトを明確に伝えるのはむずかしいと考えて、そのとき初めて知った「エグゼクティブサマリー」というものに参考書を見ながらまとめました。A3に構想図を書いて事業全体がわかるように、準備を整えました。

そして、新井副社長との会う約束の前日。

新井副社長が帰宅する直前を狙って車寄せで待ち伏せし入魂のエグゼクティブサマリーの入った封筒を渡しました。

「明日の夜ですけど、この件について話したいのです。是非、お目通しください」

翌朝、新井さんの秘書から電話がかかってきました。

「新井さんがお呼びです。すぐ副社長室へ」

日の目を浴びた教育事業

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副社長室に行くと、新井副社長が私の書いたエグゼクティブサマリーを持って待っていました。

「面白いじゃないか君。 これは別に、飲んでする話じゃないよ。 今話せ」

そこで私は、教育事業について新井副社長に話しました。日本経済新聞がなぜ、教育事業をやらなければならないかということと、事業の概要を説明し、 渋谷教育学園で実験授業をした映像をパソコンで再生し、みてもらいました。

「ほう、なるほど面白いじゃないか」

「最後に、大変申し上げにくいんですけれども、この事業に対して大手総合電機メーカーの出資が既に内定しています。 やらない場合は、新井さんが大手総合電機メーカーの社長に謝りに行ってください」

「なんだと」

新井副社長は驚いていました。しばらく考えた後にわかったと言って、その時間は終わりました。

そして 一週間ぐらいしたある日。新井副社長から声がかかりました。

「今から社長にプレゼンに行くぞ」

社長室に入ったのは初めてでした。

とても広い社長室の真ん中にあるソファの奥にどんと腰掛けた(当時の)鶴田社長に、新井副社長に行ったのと同じようなプレゼンをしました。日本経済新聞が教育事業をやることの意義と、動画を見てもらったのです。

「面白そうだな。私も、教育と情報産業とは隣接領域だから、シナジーがあると考えていたんだ。ただな、教育事業は収益を出すのはむずかしいのだよ」

社長はそういいました。

「今までもコンサルティング会社に、教育事業の可能性について相談したことはある。でも、やっぱり収益高く成長するっていう分析は、全然出てこないんだよな。ただ君の仕事はそんなに莫大な投資がいるわけでもないから、とりあえずやってみたらどうだ。ただし、社内での実験をもう少し積んだほうがいい会社設立はその後だな。」

社長がこう言ってくれて、とうとう、日本経済新聞の中で教育事業をやるというスタート地点にたつことができたのです。

教育事業については、(当時)常務社長室長の島田さんという人が面倒をみると預かってくれました。そうして島田さんの元に、「社長室付の教育開発プロジェクトチーム」というチームができたのです。これが2002年11月のことでした。(翌2003年2月に正式に教育開発室という部署が設置)

日経エデュケーションプログラム、開始

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そして、日本経済新聞が現実社会と教室を結ぶプログラムとして「日経エデュケーションプログラム」を学校に提供することになりました。これが、私がはじめて取り組んだ教育事業です。

しかし、船出は容易ではありません。少なくとも初年度、このプログラムを採用してくれる学校が20校あること、が事業継続の条件となりました。そうやって社内プロジェクトとして数年の様子をみたのちに、新会社をつくるかどうかは判断する、というものです。大手総合電機メーカーや大手通信会社にはそのことを説明し、待ってもらいながらまずは事業を立ち上げることとしました。
私はプログラムを学校に届けるため、関東の先生たち、理事長・校長500人にあてて手紙を送りました。

「日本経済新聞が国家100年の計である、日本の教育を刷新する事業を始めます。ぜひ理事長・校長、お忙しいと思いますが、日本経済新聞の会議室にお越しいただき、お話をきいていただきたい」

まるで結婚式の招待状のような立派な封筒に、返信用のハガキも入れました。すると500通送ったうち、120通ものお返事をいただきました。ありえないことです。それはやはり学校という組織の真面目さと、日本経済新聞の看板の効果、そして理念をこめたメッセージを封筒に込めて送ったことがあったからだと思います。お返事の中には出席はできませんが、資料をおくってください、というような丁寧なものもありました。

そして、当日会場には関東私学の理事長・校長40人にお集まりいただきました。

私はそこで、プレゼンをしました。理念と、まだ完成していないワークブックを持って、今、教育に何が大事なのか、日経として何がやれるのか、熱く語りました。終了後、質疑応答の時間となりました。最前列に座っていたかなりお年を召された理事長が杖をつきながら立ち上がり、おもむろに発言をはじめました。

「どうして私のところに手紙が来たのか」

お叱りを受けるものと覚悟を決めました。

「こんな素晴らしい話は、私よりもむしろ現場の先生に聞かせたかった。事前に知っていれば何人も今日の話を聞かせたい先生が我が校にはいる。是非、今度学校に来て話してほしい」

全身の力が抜け、涙が滲んできました。
これまでの活動も報われた気がしました。
大変だったけど、間違えてなかったと、体中に血がめぐる感覚がありました。

終了後も、何人かの先生方が残って「ぜひ前向きに関わりたい」と言ってくだいました。
そうして仲間が増えていきました。私も必死で、本当に関東平野を駆け巡って学校の先生方に会いに行きました。実績もないから理念だけを伝え、一人ひとり口説いてまわりました。

「わかった。それだけ熱心な人はみたことがない。あんたが言うなら間違いない。来年から総合学習で何をやるか決めてないから、宮地さんのプログラムやるよ」

そうして、なんとか約束の20校を集めたのです。

2003年の4月から、「日経エデュケーションプログラム」がスタートすることになりました。

日本経済新聞にて事件勃発

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開始当初は20校でしたが、なんとその年に関西で広げたいという人が来て、結局プログラムは初年度から30校以上の学校に導入していただくことになりました。

その間に、新たな出資者も募りました。電力会社、総合商社、専門商社などに話を持ち掛けそれぞれ濃淡はあるものの、みんな前向きに「面白い」と言ってくれている状況でした。

しかし、ここで事件が起こります。

日本経済新聞にとっての大事件。日本経済新聞の記者が自社の経営について取材を行い、社長と役員を相手に、社員株主の立場で代表訴訟を起こしたのです。メディアの不祥事を大好物とする雑誌は、「日経にクーデター!」と面白おかしく書き連ねました。

最終的には和解に至ったのですが、戦いは本当に激しく結局1年くらい続いたと思います。

私の教育事業を一刻も早くグループ子会社として設立したかったのですが、そんな話はとても役員会ではとりあげられないような状況でした。新聞社の社長が自社の社員から訴えられるという前代未聞の状況で、私の小さな新規教育事業なんか、濁流を舞う木の葉のようなもの。それどころではない、という状況でした。

私の教育事業自体は、努力の甲斐あってそれなりに順調にスタートしましたが、決裁権限を持たず勝手ベンチャーで始めた私の事業は、社内での承認もままならず、リソースの調達がうまく行かず、思わぬ停滞状態が続きました。

私は、日本経済新聞というこよなく愛した会社のなかで、会社のリソースを使いながら、世の中にほんとうに役に立つ仕事を自ら立ち上げることを夢見ていましたので、会社を辞めるなどという選択肢はその頃は正直ありませんでした。

しかし、そのときの淀んだ社内の空気を感じれば、このまま社内事業で順調にで進むことは出来ないかもしれない。
いつか覚悟を決めなければならないときがくるもしれない、と思い始めました。

40歳にして会社を辞める

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でも実際にはやっぱり怖いんです。会社を辞めるのが。

(当時)もう40歳を過ぎていて、本当に無一文になったらどうしよう。幼い子どもも2人いるし、買ったばっかりの家のローンもたくさんあるし。

もやもやとした日々を過ごしていると、その時の担当役員から呼び出しがかかりました。

「まぁ、知ってのとおりこのような状況の中で、君の教育事業を新会社として立ち上げていくことは当面無理だろう。来月の役員会で教育事業撤退を決議したいから、君にそのシナリオを書いて持ってきてほしい。それをもとに役員で議論するから。場合によっては君にプレゼンしてもらうよ」

私は愕然としながらも、とっさに答えていました。

「いや、それはちょっと難しいです」

「なんだ、難しいって」

「2003年から新しい学習指導要領が始まって、先生達にこれからこういうことをやろうって、約束してきたんです。それを一年でやめます、なんて言えない。まだ、たったの30校かもしれないけど、私を信じてくれた先生がいる。私はその人達を裏切れない。日経社員の矜持としても言うことは出来ません」

担当役員は理解できないというような顔になりました。そして、しばらくの押し問答が続いたあと、私はついに腹をくくりました。

「やめられないって、いったいどうするつもりなんだ君は!」

「であれば、日本経済新聞を辞して、私が教育の事業をやります」

こうして私は、41歳にして起業することになりました。

私がその前に立てていた事業計画は、あくまでも日本経済新聞のグループ会社とし実施するものでした。
個人宮地勘司としてはイチから出直しです。あらためてどのような事業をやるのか、そのためのリソースはあるのか、考え直さなければなりません。

最初のつまづき、教育の会社としての船出

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2004年10月を持って、私は日本経済新聞社を退職しました。

ここからは宮地勘司としての起業です。出資に前向きだった会社も日本経済新聞がはずれたとしても、どこか一社くらいは協力してくれるところがあるだろう。不安はあったものの、出資を表明していた5社に報告をしにいきました。

この度私は日本経済新聞社を退職しましたが、これから引き続き中高生向けの教材を提供していきます、一緒に新しい教育を作りましょう、と。

ところが、そううまくはいきませんでした。

話をしにいったら、出資をしてくれると言っていた会社は、みんな次々とシャッターが閉じていったのです。

段々と、私は気づいていきました。事業計画が素晴らしいとか、日本の教育が変わるよね、とか言ってくれていたけれども、この事業の価値や魅力は、事業計画やまして宮地ではなく、日本経済新聞ブランドこそが最大の価値だったのだと。

私は愕然としました。

ひとつひとつ、出資をしてくれるといっていた会社がなくなって、とうとう一番最後の会社になりました。日本経済新聞社を辞めることになったこと、事業の理念とビジネスモデルには変更がないこと、改めて出資をお願いしました。

「すみません」

2人の担当者はそういって、あっけなく帰っていきました。それが最後。そのときは夕方、ビルの窓から東京駅に沈んでいく夕日の切なさは、一生忘れられません。

すでに詰んだか、とも思いました。

そんな中で、捨てる神あれば拾う神ありとはよくいったものです。

日本経済新聞のOBや知り合いのベンチャー企業の社長、上場企業の役員など、心ある個人が100万、200万円と少額の出資を引き受けてくれたのです。

私のわずかばかりの退職金に多くの方々の思いを注いでいただいてなんとか、3,800万円が集まったのです。そして2004年11月26日、教育と探求社は、無事に船出をしたのでした。

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